八仙茶館日報

営業中!

瓢箪から駒

幾星霜か経て、のところを別のところに書こうとして、結局途中で寒くなったので、家のなかに入った。途端に警邏長の老人がライトを片手に徘徊してきて、そして座って彼は茶を飲んだ。

こんな夜中まで、警邏のお仕事も大変ですね。
いえ、務めですから。

そう言って自慢のライトを見つめる。
彼の持つライトは今ではLED。なぜなら彼は特別な存在だから。
そんな冗談も束の間、深海の世界へと彼はまた旅立つ。

ともにこの地球にいて、同じ国にいて、どれだけの距離が彼と私の間にできてしまったのか。
いつからそのような距離ができてしまったのか。

今となってはわかりようもない、そんなことを思う私の肥大した自我。

私をドライブする小さな世界の住人たちが、先日から静かになって、守ってくれる相手が居なければ、どうしたこともできず、言えず、そうしたら静かに座っていたり、横になっていたりしたらいいのに、なかなかそんなわけにもゆかず、別の駆動系によって動く私、自分の口から出る言葉はそんなことを言いたいわけではない、と低音域に隠し持った枕をチラつかせ、枕投げでもしましょうか、と誘われるがままに、午前2時の無法地帯を練り歩く。ねむねむ。

じゃあ、どんなことが言いたいんですか?
いえ、なにかこれといって特に言いたいわけではなくてですね。
それじゃあ黙っているといいですよ。
それがなかなか黙っているのも難しくて。

そんな彼に、その娘が提案する。

そうだ、それじゃあ枕投げでもしませんこと?

このやりとりを幾億回繰り返しただろうか。そうやって彼女は私の手をとって、そうして、その向こうにある続きの部屋に、サラリと足を進めながら…

いいえ、あなたとまくら投げをするのは初めてよ。

そういって彼女がふわりと身を翻したので、私は驚いて、

いや、そういうわけでは…

言葉にならずモゴモゴと。

彼女の投げた枕は窓を越え星降る夜へと飛んで行った。

明晰について

こんにちは。
少し雨が降っています。
田が湿ってくれると今後の調整もうまくいきそうでありがたく思っています。

この何年間か、ずっと明晰になりたいと思って過ごしてきました。
明晰、というのは透明のようなものです。

それについて、いろいろと定義のようなものを試みたことはありましたが、
如何せん、これからなりたい状態のわけで、振り返ってみても的を射てないものが多くあります。

なりたい、と思いながら、その何たるかを把握せぬままの行程で、
目的地を知らないが方向は知っているという道をゆく旅のようなものでした。

認知的不協和のようなものに彩られた道だったように思います。

先日、9月の末ごろ、私は体調を崩しました。
はじめ花粉症のような症状でしたが、数日後熱が出て、
そしてそれからうなされながら現実のあわいのようなところで数日を過ごしました。

熱が出ていたのもあって、そのときのことはあまり覚えていませんが、肩が凝るような感覚が肩だけでなく首から上に締めあげられるような感じがして苦しかった覚えがあります。

それからある朝、といっても大方昼ぐらいになっていましたが、起きると熱が引いていて、ホッとしました。
変化があったのはそれからです。

自分の中にあった不協和音が消えて、かといってメロディーやリズムがあるわけでもなく、ただ静かでした。
浮かぶ言葉はさまざまありましたが、それが特に自分を刺激するわけでもなく、川の中に魚が泳いでいるような心持ちでそれらを眺めていました。

昔、空白という言葉で自分の明晰を表現したことがありましたが、そのときはどちらかというと離人症的な灰色の世界がときどき自分に訪れていた経験による名付けであって、それらの川魚が色を失っていないのを見ると、空白というのも少し違うのかな、と思っています。

また、以前は客観的な視点というイメージもありました。
そしてここには世界から離れた、という含みがありました。
今の心境を思うに、これもやはり少しずれがあるように思います。

というのも、現実のまっただ中に、私はいるからです。
今、ここ。

それからまたなくなった不協和音のことを思います。
不協和音の響きが自分を支配していたことを思います。

消そうとしても消えず、自分の無力がまた新たな不協和音を生じました。
毎朝起きると同時にすでにこめかみから響く通奏低音
あるいはその音で目覚めるような毎日でした。

それが消えた今、その不協和音が自分によって表現されていたものであったことがわかります。
価値判断の欠如ではなく、印象と価値判断の分離、と言えましょうか、それぞれがそれぞれ魚になって自由に泳ぎまわるのが見えます。

9月末に起こったことが、自分の心身において生じたものなのか、あるいは現実が変質したのかはわかりません。
エーテル体の流れがゆるやかになった、とかそういう風なことも思いますが、それも想像あるいは妄想みたいなものです。
そもそもエーテル体というのが何か知りません。

ただ今、ここにいて、神道の古い言葉で言うと「なかいま」にあって、自分の明晰を感じながら、これが求めていた状態か、と新しいエンジンを手に入れた機械愛好家のようにエンジン音に耳を澄ませ、あるいはその振動を肌で感じていると、悪くないな、とこれまた好事家のようなことを思います。

そしてあらためて自分がその音や振動、力強さをすでに知っていたことを感じます。

どこに行くとも知れない旅が、ここに来て1つの地点に到着しました。
ここからは別の種類の旅になります。

その新たな旅の仕方をもう自分が知っているというのも不思議な話ですが、そういうものなのかもしれません。
誰もしてくれないのでしょうがなく、自分で馬の餞をして旅の安全を祈ることにしようと思います。

福沢先生の思い出

文明論之概略 (岩波文庫)

福沢諭吉先生の本を折に触れて読んでいる。
また、丸山先生の『「文明論之概略」を読む』も読んでいる。

文章を読むことは思考することである。
文章のムードの中で思考する、あるいは文章に沿って思考する。
単にヒントになってそこから派生していくようなものもあれば、その文章が読み手の中で思考するような場合もある。

内言という言葉があって、たぶん心理学あたりの言葉なんだけど、これは自分の中で植物的に成長し、自分の中でさまざまに響く言葉を指している(たぶん)

最近、オンラインの文章を読むことが多くて、それがしばらく続いた結果、私は内言についての無自覚というリスクあるいは罪を痛感した。
情報をフィルタリングするための通関は機能してないのか、という話もあるが、なにしろ文章量が多すぎて消化不良気味になるぐらいだったので、通関士各位はおそらく激務に耐えかねてどこかに行ってしまったのかと思われる。

閑話休題。

内言の話である。
自分の中で響く言葉は、我々の思考のリズムやコード進行を決定し、したがって精神および肉体生活のムードを規定する。

そして2013年9月の私はある日、自分の内言のクオリティの低さに慄き、そしてその内容その他が読んだ文章によって形作られていることを実感して、さらに慄いたのであった。

これはあかんわ。

ということになって初めて自分の生活環境を見直すことになったのだから視野の広い狭いとかいうレベルじゃねーぞという話であって、どうにかせなな、とようやく思ったのであった。

それで手にしたのが、本棚にあった福沢先生と丸山先生の本で、再読、あるいは再々読であったが、読みはじめてすぐにこの読書体験が自分の糧となるだろうことを確信した。

力強い思考体とも呼べる福沢先生の覇気と、また明晰かつ決断に溢れる丸山先生の論理作品群は、以前集中的に読み込んだこともあって、私の中で再び根付くのにそれほどの時間を要さず、その論理や決意や歴史や危機意識、そしてなによりも信頼が私の中で息吹きはじめるのもまた、それからすぐのことであった。

あーあーー
サボったな、しばらく、と思いながら、この大きな2つの本が手元にあることの僥倖を思い、またそのアクセシビリティのよい位置にいながらも手に取らなかったことを思い、これからのある意味で信頼の跳躍の必要に迫られた自分のこれからを思い、それまで信頼について思いを巡らせるときに通奏低音としてあった不安が次第にエネルギーへと昇華していくのを感じながら、やっぱだいぶサボったから、ちょっとちゃんとしよかな、などと思うのであった。

そう、ちょっとちゃんとしよ。


文明論之概略 (岩波文庫)

文明論之概略 (岩波文庫)

文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)

文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)

あかいふくろうのアルミの味

中国から来ていたJがうちに初めて来たときに持ってきてくれたのは紅老鷹というチベットのなんかの植物のバッツだけを集めた素敵なお茶だった。

チョコレートのような甘い香りとなめらかなファースト。
それから不思議な味が漂い、その雰囲気がなんとなくアルミぽくて、けどアルミっていうよりも、もっとこう、なんというか鉱物的な含みもあり、また透き通った雰囲気が美しい。

そんなお茶。

そのときの私のプアな英語ではそんなことを言えるはずもない。
(そして日本語でも言えてない。)
茶酔いにまかせて、メタリックな感じのする良いお茶、みたいなことを私が言ったら、金属の味がわかるの???と言ってJは笑った。

それからJはうちにときどき来てくれるようになって、そういうときはいつもお茶を飲みながら話した。
お茶のこととか擬態語のこととか漢字のこととか芸術のこととか、資本主義経済とか全体主義とかのことも話したりした。お茶を淹れながら。

それが先々週ごろ、Jから電話があって、community art festa(?)の仕事が進み始めたから9/16に中国に帰ることになったと言う。

それで先週の水曜に来てくれることになって、またお茶を淹れて飲んだ。
鳳凰単叢八仙香。

茶のことばかり話した。

事務所の壁に掛けてある李白の黄鶴楼の詩を指して、ああ、友達にさよならの詩ねー、とだいぶ上手になった日本語でJは言った。

別れ際、はなむけに彼女のお気に入りの白牡丹という白茶を少しばかりプレゼントした。
彼女の方でも包みを持ってきてくれていて、貰って中を見ると紅老鷹の透き通った茶葉であった。

またいつかどこかで茶を飲もうと約し、そして別れた。
次の日淹れた紅老鷹はやはり鉱物的な味がした。
けど最初に会ったときにメタリックな味と言ったのはちょっと変やったな、と思った。

今日の便でJは中国に帰る。

茶友の煎福を心から願う。


茶経 全訳注 (講談社学術文庫)
チベットの生と死の書 (講談社プラスアルファ文庫)

だいたいなにもすることがないなんてことがあろうか。

最近2つある本業の傍ら、あるお店を手伝っている。
午前と午後は本業をやって、夕方には別の本業を少しやって、それから夜そのお店のホールを少し。
働き過ぎに見えるが、実際のところは週4.5のフルタイムぐらいな感じ。
それぐらいがちょうどいいと思って、そういう風に生活を作ってきた。

飲食は黒いみたいなことはよく言われるし、よくあるけど、私の場合は幸い受給バランスがうまくいってて、真っ白である。

ちゃきちゃき体動かすの楽しいし、小さいバーにありがちなお客さんとの馴れ合いのような変な関係もなく、ちょうどいい。

そういえば、最近ブラックって搾取とかそのあたりの話が見えず、経営者の人格を問う話ばかりになっているのははてなだけなのかしらないけれども、さまざまな業種の経営者と話す機会が土地柄か、生活柄か、よくあって話していると、飲食なんかは特に経営者に「人格者であらねばならない圧」を感じさせていて、その認知的不協和にやられている人も多い。
もちろんそこから協和を目指し、協和を達成している(ように見える)人もいる。

逆に開き直りの三太郎で、「補助金?もろとけもろとけ、もろたもん勝ちや!」みたいな人もいるけど。

あとそのへんで思うのは、年収400万がどうとかっていう話で、経営の基本はコストカット!みたいな気がしてたんやけど、その辺のことはどうお考えなんだろうか、とか。

それはそうと、きょう仕事が終わって、そのお店に友人たちが来てて、私の仕事が終わったあとその5人に混ざって飲んでた。
私達も30才の手前となって、話すことはだんだん20代前半のころとは変わっているけれど、楽しいのは変わらず、あとみんな大人になってるなあ、と自分にフィードバックがかかって心地いい。

そんななかで、ひとりが携帯を触って某パズルゲームを始めて「え、なんやってんの?」「知らんの?」「いや、知ってるけど、なんていうか」とか、そういうやりとりを聴いててもなんか可笑しみがあった。

あと隣の女の子が可愛かった。

最近、文章を読むのは中国の古典ばかりで、まともな会話をしてなくて、それで久しぶりにまともな会話を彼ら/彼女らとしててずっと思ってたのは、優しいなあ、ということ。

ここ最近自分のリミッターみたいなのをはずす訓練をしていて、その中で、リミッターというのが、自分で作っている、ということをよく考えてて、それは他者との関わりの中で形成され、強化されるみたいなことも考えたりしてたけど、優しいっていいなと思った。

穏やかで優しくなれたらいいな、と思った。

それぐらいその女の子が穏やかで!優しかった!ということ!

仕事して、そのあと畑に行こう。
2つの本業のうちの1つは農業なのでした。

帰ったら王陽明読むーーーー

王陽明研究
王陽明 知識偏重を拒絶した人生と学問―現代活学講話選集〈7〉 (PHP文庫)
伝習録 (中公クラシックス)

現実に映し込んでみる:『依田ノート』書評

依田紀基氏の『依田ノート』が出たのが2003年で今年で10年。

自分が囲碁を始めたのが、5年前で現在アマ5段。
1年で1段という自分で見てもなかなか早い上達を見せているのは、留年して「しょうがないから囲碁でも打つか」と安気に囲碁部室をのぞいた自分を歓迎してくれて、熱心にもいろいろ教えてくれた後輩たちの存在があって、彼らの存在はとても大きい。

そして同時に彼らのうちのひとりが『依田ノート』を読むといいですよ、と言ってくれて、それからこの本を読み始めたことも大きかった。

依田ノート

依田ノート


wikipedia:依田紀基

最後の無頼派棋士って言われてたのね。

『依田ノート』は大局観にすぐれた碁打ちの依田さんによって、上達理論として広く書かれた本。
本文もさることながらまえがきが素晴らしく明快で、これだけでも押さえてていいんじゃないですか、とは前述の後輩君の談。

囲碁で上達するのに必要な理論は、わずかに四つだけなのです。

こういう絞りができるのはすぐれた大局観による。
具体的には以下の4つ。

  • 最大の手を打つ
  • 厚みに近づかない
  • 将来の可能性を大切にする
  • 利き筋を決めない

以下ではこの4つを読み込みながら現実にそれを映し込んでみようかと。

最大の手を打つ

最大の手というのもあらためて見ると面白い言葉で、囲碁では「大きい」「小さい」と手を評す。
何が「大きい」のかというと、これは「影響力」でしょうか。囲碁は感覚試合と言われるぐらいで、理論をいかに感覚と結びつけるかというのが楽しいところで、やっていると黒と白の勢力圏がなんとなく見えてくる。無関心を装うような遠目のふわりとした一手や露骨に一言モノ申すような一手などさまざま。そういうのが白黒の二元論の中で太極図のように融け合いつつ浮かび上がる。

広いところが大きいこともあれば、メンテナンス的に手を入れて自分の傷を守るところや、あるいは逆に相手の石の傷をつくのが大きい場合もある。

広いところは「大場」、傷に関わるところは「急場」と言われ、一般には「大場より急場」。

生きる中で、自分はなにを成し遂げたいか、という質問を自分に投げかけることがある。

この世に生を享け、こうして今ここにいる。
何を成したいと自分は今思っているのか。

これが「大場」に対する問い。

一方で今、「例の書類の提出期限が明日!」となると何を成すとかそういうのは一旦置いて、ほったらかした書類を鞄から出して、ペンを持ち、必要事項を記入していくことが急務となる。
これが「急場」。

いずれにしても将来あるいは現在における影響力の強い一手を打つことが重要となる。

厚みに近づかない

「厚み」。厚みというのもなかなかな言葉で、囲碁でいう厚みとは「生きた石」「おおかた生きた石」を「厚み」と呼ぶ。「生きた」というのは「死なない」ということで、相対的に「強い石」ということになる。

「厚み」を巡っては議論があり、明確な定義はないけどこんな感じ。

逆に「薄い」という言葉もある。
囲碁では連結が重要で、「弱い石」=死ぬ可能性の相対的に高い石が相互に結びつくと相対的に「強い石」となる場合が多い。

「弱い石」というのはどういうものかというと連結が乏しい石のことである。
石というのは1つの石だけで存在するわけではなくて、まわりとのつながりで成り立つものであって、1つの手を打つ場合、その前にすでにある石(かつて打った石)の影響力をかならず受け、またその一手は盤上になにかしらの影響力を与える。

あ、そうそう、石のクラスタはこれまた石と呼ばれるのです。

厚みというのは自分が成し遂げたことで、薄みというのはやったものの成果が出ていないもの。そんな風に理解している。自分の成し遂げたことは自分にとっての強みで、やったけれども成果の出ていないところは、これから手を入れる必要がある。
ほったらかしてもいい、ということも生活の中ではあるけれど、あとあと難儀なことになったりするので、手を入れておくのが吉。
囲碁では打った石の顔を立てる、という言葉があって、方針がぐにゃぐにゃしているといい流れにはならない。

壁は乗り越えるまで目の前に現れる、というのに似ています。

ただ、将来のことを考えると、そこに手を入れるよりもこちらが大きいのではないか、というような判断も勿論あって、そういう場合は早めに捨てる。捨てる場合もその外からの利きが残るようなやりかたがよくて、このことについては後述。

さて「厚みに近づかない」というのはどういうことかというと、囲碁の場合相手がいる話なので、自分が近づかなければ相手が近づくことになり、ということは相手の石に対して自分の強い石をもって迎えることになって有利に戦える。
生活の場合、相手(敵ではない)は複数、多面打ちのような感じか、いろんな見方があるところだけど、自分の相手をここでたとえば「現実」とした場合には「すでにある現実」と「自分の理想」という石の色で戦うわけで、「すでにある現実」の確固としたところを相手に戦っても勝ち目はないのでそこには近づかず、なんとなくここはおかしいんじゃないの、というところから攻めていくのが方針となる。

「現実」というのは案外「現実とされていること」の集まりで、それらを支えるのは「個人個人の思惑」であったりする。そういうわけでゲリラ戦も有効になる。自分がひとつの「思惑をもった個人」という石であることは含んでおいてよいかもしれない。

また厚みというのは相手の厚みだけでなく自分の厚みもあって、自分がはっきりさせた現実はそれが相対的に強い段階では自分は近づかない=相手に来てもらうことが方針となる。

将来の可能性を大切にする

最初の「大きい手」ということにつながる話で、選択肢が複数ある場合、将来的に自分の成し遂げたいことが成立する可能性を高める一手がより重要な手となります。ゲリラ戦の話のところでうっすら示されたように、現実というのはかなりの数の層によって成り立っているもので、そのなかで、自分の成し遂げたいことをどのように成し遂げるか、ということに関わる一手はその下層にある生活する身体という層の具体的な一手の影響を受ける、というような感じ。

ある層において強い影響力をもつ手の流れが、別の層においては自分の方針を損なう一手になる可能性も含めて判断する、というのがとても重要。

利き筋を決めない

行動の集積が流れを形作り、とりあえずの結果が出る。それは完成された形ではなくて、それをどのように活かすか、ということがその次にある。

現在の状況だけを見て「こうしたらいいんじゃないか」という案が出てきたとき、別の層から見て、それはどのような一手になるだろうか。別の層からの視点なく判断する場合、それは利き筋を決めてしまっている可能性がある。

利き筋はそりゃもちろんいずれ決める必要があるだろうけど、無理に決めんでええところで決める必要はないんじゃないの、というわけです。

この決め方についても方針にしたがって大きく見て、方針を成立させる方向で決めるべきときに決めるというのが重要になります。

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依田ノートのまえがきに書かれた「4つの理論」について、現実に映し込むなどと大それた方針を立てて書きはじめたもののまとまりのある文章にはならず。
具体例がほとんどなく、余計にわかりにくくてすみませんが、具体例を入れるとそれこそ利き筋を決めてしまって解釈の層を限定してしまうので入れませんでした。適当に補完してもらえたらと思います。

囲碁はもともと占星術に関わる、という話があって、易経に見られる世界解釈との馴染みがよく、そのへんに興味がある方は孫子を読んでみるといいかもしれません。

この文章のややこしさは私の世界解釈の混迷に由来するもので、囲碁がややこしいということを示すものではないということを、念のためここに申し置き候。

依田ノート

依田ノート


新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

真実について

きのう『知の逆転』を読んだあとから、科学のひとの姿勢・態度と、自分のまわりの状況が、「真実」という言葉を媒介にして気になっている。

どれが真実かは俺が決めるという覇権主義的な風味と、唯一絶対の客観的世界と。

なんかこういう2項は行き詰まるのは相場が決まってて、学生のときは相場知らずの博打打ちとも言える蛮勇を、それ以外が見えずにやってたな。

批評は愛情ですね。

じゃないと育たないから(@白洲正子)。