八仙茶館日報

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言語ドリブンな生活

lang8
Multi-lingual language learning and language exchange | Lang-8: For learning foreign languages


lang8は、外国語学習者のためのオンラインサービスで、自分の勉強している外国語で文章を書くと、ネイティブの人たちがそれに赤を入れてくれるという、なんとも面白いところだ。
私は主に英語でそこに文章を書く。そうするとさまざまな国の英語話者がそれを添削してくれる。
わからなければ質問すると、とても親切に教えてくれることが多い。

逆から見ると、私は日本語話者なので、日本語で書かれた文章(台湾や中国の方の書いたものが多い)を読んで、直す部分があれば直す。
ときには日本ではあまり聞かない表現を彼らが使って、それが新鮮味を感じさせたりすることもあって、そういう場合にはそのことも伝えたりしている。

日に一つ英語文を書き、誰かが添削してくれたのに答え、そして日に一つの日本語文を添削する。
それがここのところの習慣になっていて、早くも英語で文章を書く習慣の良さを感じている。

それは、一言で言うと、自分の頭が英語のやり方に馴染む、ということだ。

マア、言い古された話ではあるけど、仕方ないよね。

日本語で喋るとき、私たちは日本語の構造やコード、雰囲気に従って話している。
英語で喋るとき、英語話者たちは英語の中のそれらの要素にしたがって話す。

普段はそれらをそれほど意識することなく生活しているし、意識しなくても概ね大丈夫だ。

でも、人はときどき思考の袋小路みたいなところに入る。
そして多くの場合、そういう状況というのは私たちの言葉に由来しているんじゃないか、と思うことがある。

それだけじゃない。
いつの間にか、というのは恐ろしいもので、私たちはいつの間にか、馴染んでいるあるやり方が当たり前で、他を試してみようとは思わなくなってしまうものだ。
(仮に別のやり方があると知っていても、それを採用しない理由をつけるのに苦労することはないだろう、と思う。)

これを読んでくれているあなたには、
こういう人になりたい、と思っていたイメージがあっただろうか。
反対に、こういう人にはなりたくない、と思っていたイメージはあるだろうか。

私にはかつて、そういうイメージがあった。

生活の中で「いい」と思うことが出てくる。
ここをこうしたら使いやすいんじゃないか、とか、
あの人にこういうことを伝えたい、とか。

ここで言いたいのは道徳的なことではなくって、わりと素朴に「いい」と思うこと。
あんまりはっきりしたものでもなくって、その都度その都度。

私は「いい」と自分で思えることをストレートにできる人になりたい、と思っていた。
反対に、自分が「いい」と思ったのにしない、というのは嫌だった。

「あんまり踏み込むとややこしそうなので控えめにしとく」のがこの場合の「いい」やね;-)

今、数十歳になった私は、「いい」と思うことや、「いい」と思うやり方と自分が出会って、ちょくちょくそれをスルーしているのを見る。
そしてそれに理由をつけるのが、変に上手くなっているのを見る。

マア、わりとうんざりしていたわけです。

それとは別に冒頭のlang8のことを思い出したので、このところしばらくそれに取り組んでいた。
英文で果物とか梅の花の話を書いたり、添削してもらったり、日本語の文章を読んで、「商売人」と「商人」の違いについて考えたりしていた。

すると思いがけず、その辺りについてのいい感触を感じた。
そして、その感触は考えを深めていくきっかけになり、その内容は生活の中にも活かされることになった。
そういうわけで、lang8面白いですよ、とここにお伝え申し上げようと思った次第でござる。

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あ、伝えようとする意志のこと、書くの忘れてら。
また今度にします。

言語が考えてんだなあ笑