八仙茶館日報

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レイヤーについて

きのうは感情のもつれについて書こうと思って、しばらく書こうとしていたけれど、なかなか筆も進まず、自分の感情のもつれについて書くよりも、それよりなによりもつれたのを解くほうが先、とその時ながらに思い至って、それでしばらく坐っていた。
そういうのを含めて瞑想と呼ぶ、ということを知らず、ただ何もしないこと、というイメージがずっとあったので、マア、それも仕方のない話で、というのも言葉で言うにはそう言うよりなく、瞑想を指示するのは原理的に不可能なんやなあ、と今になって思ったりしている。
それは自分で考えろ、という言葉の伝わらなさとお互いのもどかしさにも似ている。
それでそういうところも見ていたりして、坐っているといろんなことが起こるものだ、などと思って、そうも思いながら坐っていた。
その中でしばらくぶりに思い出した体感とかムードみたいなのとか、そういうののなかでも特にかつて自分が大切にしていたところが出てくる。
瞑想の人たちはもしかしたらそういうのも観るというかもしれないが、凡夫にあっては名残も惜しく、それを眺めたり、それになってみたりして遊んでいた昨日今日。
それになる、というのは不思議な話で、哲学等々で私について議論したり、憑き物がどうたら、それでもそのあたりの話は仏さんはご存知であったことよ、と思い至ると不思議な調和を感じたりして、その言葉を知る前は一切空って面白くない!と言っていた照見五蘊皆空を観て、んーむと却って我が身の愚かさを観たり、その上でも不思議な快さというのか、これは何と言えばいいのか、そういうものがあった。
快さでは、しかし、そちらの方はまだ自分ではなくって(マアそんな日はないのかもとも思いながら)、思い出した体感等々そのような快さの方が身に沁みている、というのがさっきの遊びの話で、マア、そんな急ぐこともなかろう、と速いは遅いと言ったカシオペアの言葉を反芻する。
今日はそんな感じでありましたのこと。