八仙茶館日報

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明晰について

こんにちは。
少し雨が降っています。
田が湿ってくれると今後の調整もうまくいきそうでありがたく思っています。

この何年間か、ずっと明晰になりたいと思って過ごしてきました。
明晰、というのは透明のようなものです。

それについて、いろいろと定義のようなものを試みたことはありましたが、
如何せん、これからなりたい状態のわけで、振り返ってみても的を射てないものが多くあります。

なりたい、と思いながら、その何たるかを把握せぬままの行程で、
目的地を知らないが方向は知っているという道をゆく旅のようなものでした。

認知的不協和のようなものに彩られた道だったように思います。

先日、9月の末ごろ、私は体調を崩しました。
はじめ花粉症のような症状でしたが、数日後熱が出て、
そしてそれからうなされながら現実のあわいのようなところで数日を過ごしました。

熱が出ていたのもあって、そのときのことはあまり覚えていませんが、肩が凝るような感覚が肩だけでなく首から上に締めあげられるような感じがして苦しかった覚えがあります。

それからある朝、といっても大方昼ぐらいになっていましたが、起きると熱が引いていて、ホッとしました。
変化があったのはそれからです。

自分の中にあった不協和音が消えて、かといってメロディーやリズムがあるわけでもなく、ただ静かでした。
浮かぶ言葉はさまざまありましたが、それが特に自分を刺激するわけでもなく、川の中に魚が泳いでいるような心持ちでそれらを眺めていました。

昔、空白という言葉で自分の明晰を表現したことがありましたが、そのときはどちらかというと離人症的な灰色の世界がときどき自分に訪れていた経験による名付けであって、それらの川魚が色を失っていないのを見ると、空白というのも少し違うのかな、と思っています。

また、以前は客観的な視点というイメージもありました。
そしてここには世界から離れた、という含みがありました。
今の心境を思うに、これもやはり少しずれがあるように思います。

というのも、現実のまっただ中に、私はいるからです。
今、ここ。

それからまたなくなった不協和音のことを思います。
不協和音の響きが自分を支配していたことを思います。

消そうとしても消えず、自分の無力がまた新たな不協和音を生じました。
毎朝起きると同時にすでにこめかみから響く通奏低音
あるいはその音で目覚めるような毎日でした。

それが消えた今、その不協和音が自分によって表現されていたものであったことがわかります。
価値判断の欠如ではなく、印象と価値判断の分離、と言えましょうか、それぞれがそれぞれ魚になって自由に泳ぎまわるのが見えます。

9月末に起こったことが、自分の心身において生じたものなのか、あるいは現実が変質したのかはわかりません。
エーテル体の流れがゆるやかになった、とかそういう風なことも思いますが、それも想像あるいは妄想みたいなものです。
そもそもエーテル体というのが何か知りません。

ただ今、ここにいて、神道の古い言葉で言うと「なかいま」にあって、自分の明晰を感じながら、これが求めていた状態か、と新しいエンジンを手に入れた機械愛好家のようにエンジン音に耳を澄ませ、あるいはその振動を肌で感じていると、悪くないな、とこれまた好事家のようなことを思います。

そしてあらためて自分がその音や振動、力強さをすでに知っていたことを感じます。

どこに行くとも知れない旅が、ここに来て1つの地点に到着しました。
ここからは別の種類の旅になります。

その新たな旅の仕方をもう自分が知っているというのも不思議な話ですが、そういうものなのかもしれません。
誰もしてくれないのでしょうがなく、自分で馬の餞をして旅の安全を祈ることにしようと思います。