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現実に映し込んでみる:『依田ノート』書評

依田紀基氏の『依田ノート』が出たのが2003年で今年で10年。

自分が囲碁を始めたのが、5年前で現在アマ5段。
1年で1段という自分で見てもなかなか早い上達を見せているのは、留年して「しょうがないから囲碁でも打つか」と安気に囲碁部室をのぞいた自分を歓迎してくれて、熱心にもいろいろ教えてくれた後輩たちの存在があって、彼らの存在はとても大きい。

そして同時に彼らのうちのひとりが『依田ノート』を読むといいですよ、と言ってくれて、それからこの本を読み始めたことも大きかった。

依田ノート

依田ノート


wikipedia:依田紀基

最後の無頼派棋士って言われてたのね。

『依田ノート』は大局観にすぐれた碁打ちの依田さんによって、上達理論として広く書かれた本。
本文もさることながらまえがきが素晴らしく明快で、これだけでも押さえてていいんじゃないですか、とは前述の後輩君の談。

囲碁で上達するのに必要な理論は、わずかに四つだけなのです。

こういう絞りができるのはすぐれた大局観による。
具体的には以下の4つ。

  • 最大の手を打つ
  • 厚みに近づかない
  • 将来の可能性を大切にする
  • 利き筋を決めない

以下ではこの4つを読み込みながら現実にそれを映し込んでみようかと。

最大の手を打つ

最大の手というのもあらためて見ると面白い言葉で、囲碁では「大きい」「小さい」と手を評す。
何が「大きい」のかというと、これは「影響力」でしょうか。囲碁は感覚試合と言われるぐらいで、理論をいかに感覚と結びつけるかというのが楽しいところで、やっていると黒と白の勢力圏がなんとなく見えてくる。無関心を装うような遠目のふわりとした一手や露骨に一言モノ申すような一手などさまざま。そういうのが白黒の二元論の中で太極図のように融け合いつつ浮かび上がる。

広いところが大きいこともあれば、メンテナンス的に手を入れて自分の傷を守るところや、あるいは逆に相手の石の傷をつくのが大きい場合もある。

広いところは「大場」、傷に関わるところは「急場」と言われ、一般には「大場より急場」。

生きる中で、自分はなにを成し遂げたいか、という質問を自分に投げかけることがある。

この世に生を享け、こうして今ここにいる。
何を成したいと自分は今思っているのか。

これが「大場」に対する問い。

一方で今、「例の書類の提出期限が明日!」となると何を成すとかそういうのは一旦置いて、ほったらかした書類を鞄から出して、ペンを持ち、必要事項を記入していくことが急務となる。
これが「急場」。

いずれにしても将来あるいは現在における影響力の強い一手を打つことが重要となる。

厚みに近づかない

「厚み」。厚みというのもなかなかな言葉で、囲碁でいう厚みとは「生きた石」「おおかた生きた石」を「厚み」と呼ぶ。「生きた」というのは「死なない」ということで、相対的に「強い石」ということになる。

「厚み」を巡っては議論があり、明確な定義はないけどこんな感じ。

逆に「薄い」という言葉もある。
囲碁では連結が重要で、「弱い石」=死ぬ可能性の相対的に高い石が相互に結びつくと相対的に「強い石」となる場合が多い。

「弱い石」というのはどういうものかというと連結が乏しい石のことである。
石というのは1つの石だけで存在するわけではなくて、まわりとのつながりで成り立つものであって、1つの手を打つ場合、その前にすでにある石(かつて打った石)の影響力をかならず受け、またその一手は盤上になにかしらの影響力を与える。

あ、そうそう、石のクラスタはこれまた石と呼ばれるのです。

厚みというのは自分が成し遂げたことで、薄みというのはやったものの成果が出ていないもの。そんな風に理解している。自分の成し遂げたことは自分にとっての強みで、やったけれども成果の出ていないところは、これから手を入れる必要がある。
ほったらかしてもいい、ということも生活の中ではあるけれど、あとあと難儀なことになったりするので、手を入れておくのが吉。
囲碁では打った石の顔を立てる、という言葉があって、方針がぐにゃぐにゃしているといい流れにはならない。

壁は乗り越えるまで目の前に現れる、というのに似ています。

ただ、将来のことを考えると、そこに手を入れるよりもこちらが大きいのではないか、というような判断も勿論あって、そういう場合は早めに捨てる。捨てる場合もその外からの利きが残るようなやりかたがよくて、このことについては後述。

さて「厚みに近づかない」というのはどういうことかというと、囲碁の場合相手がいる話なので、自分が近づかなければ相手が近づくことになり、ということは相手の石に対して自分の強い石をもって迎えることになって有利に戦える。
生活の場合、相手(敵ではない)は複数、多面打ちのような感じか、いろんな見方があるところだけど、自分の相手をここでたとえば「現実」とした場合には「すでにある現実」と「自分の理想」という石の色で戦うわけで、「すでにある現実」の確固としたところを相手に戦っても勝ち目はないのでそこには近づかず、なんとなくここはおかしいんじゃないの、というところから攻めていくのが方針となる。

「現実」というのは案外「現実とされていること」の集まりで、それらを支えるのは「個人個人の思惑」であったりする。そういうわけでゲリラ戦も有効になる。自分がひとつの「思惑をもった個人」という石であることは含んでおいてよいかもしれない。

また厚みというのは相手の厚みだけでなく自分の厚みもあって、自分がはっきりさせた現実はそれが相対的に強い段階では自分は近づかない=相手に来てもらうことが方針となる。

将来の可能性を大切にする

最初の「大きい手」ということにつながる話で、選択肢が複数ある場合、将来的に自分の成し遂げたいことが成立する可能性を高める一手がより重要な手となります。ゲリラ戦の話のところでうっすら示されたように、現実というのはかなりの数の層によって成り立っているもので、そのなかで、自分の成し遂げたいことをどのように成し遂げるか、ということに関わる一手はその下層にある生活する身体という層の具体的な一手の影響を受ける、というような感じ。

ある層において強い影響力をもつ手の流れが、別の層においては自分の方針を損なう一手になる可能性も含めて判断する、というのがとても重要。

利き筋を決めない

行動の集積が流れを形作り、とりあえずの結果が出る。それは完成された形ではなくて、それをどのように活かすか、ということがその次にある。

現在の状況だけを見て「こうしたらいいんじゃないか」という案が出てきたとき、別の層から見て、それはどのような一手になるだろうか。別の層からの視点なく判断する場合、それは利き筋を決めてしまっている可能性がある。

利き筋はそりゃもちろんいずれ決める必要があるだろうけど、無理に決めんでええところで決める必要はないんじゃないの、というわけです。

この決め方についても方針にしたがって大きく見て、方針を成立させる方向で決めるべきときに決めるというのが重要になります。

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依田ノートのまえがきに書かれた「4つの理論」について、現実に映し込むなどと大それた方針を立てて書きはじめたもののまとまりのある文章にはならず。
具体例がほとんどなく、余計にわかりにくくてすみませんが、具体例を入れるとそれこそ利き筋を決めてしまって解釈の層を限定してしまうので入れませんでした。適当に補完してもらえたらと思います。

囲碁はもともと占星術に関わる、という話があって、易経に見られる世界解釈との馴染みがよく、そのへんに興味がある方は孫子を読んでみるといいかもしれません。

この文章のややこしさは私の世界解釈の混迷に由来するもので、囲碁がややこしいということを示すものではないということを、念のためここに申し置き候。

依田ノート

依田ノート


新訂 孫子 (岩波文庫)

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